あの日の自分は冴えていた

2018年1月10日

入浴

脳が冴えわたる瞬間がある

それは 突如 何の前触れもなく訪れる

冬の朝の透明な冷えた空気や 台風が去った後の雲ひとつない透き通る青空 草原に吹く颯爽とした風に感じる純粋で新鮮な感情
汚れたガラス越しに見ていた世界が いきなりクリアにハッキリと見えるような感覚
今まで悩まされていた問題に解決の糸口が見つかったり 普段では考えつかない事が頭に浮かんだりする

それが冴えている状態

万有引力を発見したニュートンの逸話を例にすると
ニュートンはリンゴの木からリンゴの実が二つ落ちるのを見て おっぱいを頭に思い浮かべた
次に おっぱいから巨乳を連想し巨乳が上下に揺れる様を想像した

そして ニュートンは
「チチバンドは 正しくつけるべし!!」と叫び 万有引力への発見へと繋がっていたのだ

それは脳が冴えわたっている状態だから
ニュートンが冴えている状態だったからこその気付きだった

物は落ちるのではない  引っ張られているのだ
恋は落ちるのではない  引きつけられているのだ
受験は落ちるのではない 勉強不足で不合格なだけだ

ニュートンの例を見ても分かる通り 冴えている状態の脳は 閃き 想像 転換が早い

そう あの日の自分は冴えていた

それは厳しい冬の時期だった
ストーブをつけている部屋の中でさえ震えてしまうほどの寒い日だ
自分は仕事を終え家に帰り お風呂に入ろうと脱衣所に向かった

お風呂に入ると言ってもシャワーである

自分と嫁とで お風呂に入る時間が違うので
浴槽に お湯をためると 次に どちらかが入る時には お湯が冷めて無駄になる
家の風呂釜に 浴槽の お湯を追い炊きする機能がないのだ
そのため 冬の時期でも身体が温まらないのを承知でシャワーだけにしていた

冷え切った脱衣所で裸になり 更に冷えている浴室に入る

心臓の弱った年寄りなら 発作を起こすんじゃないかと思うぐらいの辛い寒さ
いつも その寒さに耐えながらシャワーを浴びる
心が弱っている時などは凍える寒さに耐えられる自信がなくなりシャワーを浴びるのを断念したくなるほどだ

脱衣所は案の定 寒かった

ここで裸になり さらに寒い浴室に入るわけだが この時の自分は冴えていた
冴えに冴えてる冴えわたっていた

この嫌になるほどの寒さを克服する方法を 寒さを感じずにシャワーを浴びる方法を思い付いたのだ
まず冴えてる自分は寒い脱衣所で裸になると言う事を突き詰めて考えた

服を脱ぐ それは今まで自分の体温で温まった服を脱ぐと言う事だ
寒い所で温まった服を脱げば 裸になった時に感じる寒さは倍増する
ならば答えは ひとつ

服を着たままシャワーを浴びればいい!

さすが冴えてる自分は ひと味違う

なんて単純明快なことだろう しかし冴えていなければ この答えには到底 辿り着けない
今まで学んだ常識が 経験からの行動が こうゆう時は こうするのが当たり前と言う固定した普遍の思いが邪魔をする
思考の幅を狭める 思想の逸脱を許さない ゆえに考えを止める 今まで通りの行動を疑いもなくする

冴えてる状態は発想に制限が無い

脳内のシナプス回路が縦横無尽に電気信号を送り合い 今までに 見た事 聞いた事 感じた事 それら全ての情報を瞬時に繋ぎ合わせ連想に継ぐ連想を繰り返し思考を無限の果てへと導く
極限に研ぎ澄まされた冴えたる脳だから出来る発想

服を着たままシャワーを浴びればいい

その通りだ わざわざ温まった服を脱ぐ必要などない 服を脱ぐから寒さが倍増するのだから
自分は上着のシャツと その下に長袖のTシャツ そしてジーンズをはいた姿のまま浴室に入った

寒くない!やはり この方法なら間違いなく寒さを感じない

浴室にあるプラスチックの椅子に服を着たまま座りシャワーの お湯を頭から浴びる
お湯が頭を濡らす そして服を濡らす
問題ない!服は どうせ洗うんだ 濡れた服を絞って洗濯機に放り込む それで済む事

自分は そのままの状態でシャンプーを使い頭を洗い始める
服は かなり濡れてきて肌に張り付いてくる ズボンもずぶ濡れだ パンツまでも濡れてきている
しかし 寒さは感じない
それどころか お湯で濡れた服はホッコリとした温かみで自分を包み込んでいる

さすがだ 冴えてる自分の着眼に敬意を表したい

自分はシャンプーの泡を洗い流す 泡が濡れた服の上を流れていく
その時 浴室の扉が勢いよく開いた
自分は目に お湯が入らないように 薄目で扉の方を見る
そこには驚いた顔で こっちを見ている嫁がいた

嫁は微かに震える声で「何をしてるの?!」と言った

扉が開いたことで冷たい空気が浴室に流れ込んでくる
自分は寒さを感じずにシャワーを浴びていたのを邪魔をしてきた嫁に一言
「シャワーを浴びてるんだよ 見て分からないかい?」と頭の泡を流しながら答えた

何をしてるの?はないだろう
浴室でプラスチックの椅子に座り頭からシャワーを浴びてる それだけのことだ
見たまんまだ それ以外の何をしている姿に見えると言うのだ?
これが禅の修行で滝に打たれている姿にでも見えているのか?

でも
ここは優しく教えてあげるべきだろう
当たり前のことを分かりやすく説明してあげなければいけないのだろう

今の嫁は冴えていない状態なのだ
冴えていない状態の人間に冴えてる人間の行動や思考は理解し難いものだ

冴えてる自分は優しく嫁に言った
「扉が開いていると冷たい空気が入って来て寒いんだよ 閉めてくれるかな?」
冴えてない嫁は それを聞くと無言で扉を閉めた

シャワー
自分は服を着たままシャワーを浴びるのを続行した
頭を洗い終わり 次は身体を洗う

いよいよ濡れた服を脱ぐ時が来た

自分は まず上に着ているシャツのボタンを外し脱ぐ 濡れているので脱ぎづらい
次にシャツの下に薄手の長袖Tシャツを着ているので それを脱ぐ…
……脱ぐ……脱ぎたいのだが……
肌に張り付いて 全然 脱げない 特に腕と背中 肩に張り付いた所が厳しい
その部分が張り付いていると上手く身体が動かせないのだ
自分は悪戦苦闘しながら 顔の所まで服をまくる

なんてことだ!

肌が露出すると寒い 肌から離れた服は急速に熱を失い冷たくなってきている
しかも 顔まで引き上げた服が顔に張り付き呼吸が出来ない!
自分は慌てた

このままでは服に殺される

自分は必死に服を上に引っ張る 顔を 何としても顔を出さなければ
服が破れてもいい 今は服の無事を案じるよりも まず自分だ 自分の身が何よりも大事 自分の身は自分で守る 自分が助かるなら周りに被害が及んでも仕方ない それは生き残ってから考えればいいことだ まずは生き残る それが最優先だ 服は破れてもいい!! 

自分は力の限りに服を引っ張り上げる
服は破れる臨界点に達するほどに引き伸ばされる

そして抜けた

自分は服が脱げたのと同時に深く呼吸をする
幸い服は破れなかったが服を脱いだことで背中が急速に冷えてきた
温かいのはシャワーの お湯が当たっている前面だけだ

寒さで身体が震える
急激な温度変化が寒さを強調してくる

自分は急いで びしょ濡れのズボンとパンツを脱ぐ 下半身に履いている物がビショビショに濡れている感覚は自分に背徳感と挫折感を感じさせるが気にしている場合ではない さっさと身体を洗いシャワーを終わらせる
それだけだ

九死に一生を得た自分は この寒いシャワータイムから少しでも早く逃げ出したいのだ

自分はカラスの行水の如く身体を洗い浴室を出て タオルで身体を拭いた
そして寝巻に着替え何食わぬ顔で居間に行く

居間では嫁がガラケーをいじっていた

シャワーを終えた自分に気付いた嫁は 不安げな顔で自分にガラケーの画面を見ながら幾つかの質問をしてきた
冴えてる自分は それが若年性認知症のチェックテストだと すぐに理解したが
あえて何も言わず質問に素直に答えた

冗談で わざと変な答えをしようかとも思ったが 冴えてる自分は冷静だった
事を大きくするのは得策ではないと
ましてや
自分が服を着たままシャワーを浴びて死にかけたなどと言ってはいけない
そんな事を言えば嫁は驚愕し大騒ぎになると冴えてる自分は考えたのだ

自分が質問に答えた後 嫁は軽く安堵したようだ
どうやら若年性認知症のチェック項目には無事に引っかからなかったようだ

それでも疑いが全て晴れたわけではないらしく嫁の視線には戸惑いが感じられた
そんな嫁を見ていたら自分は ある事を思い出し「あっ!そうだ!」と声をあげ
寝巻を着たまま浴室の扉を開け中に入った

その途中で嫁が「えっ?!何で またシャワーを浴びに行くの?」とポツリと言ったのが聞こえた

自分は濡れた服を浴室に そのままにしていたのを思い出しただけだ
シャワーを浴びるわけではない
寝巻を着たままでシャワーを浴びるほど自分は馬鹿ではない
自分は服を絞り浴室を出て洗濯機に服を入れた

居間に戻ると嫁が絶望した顔で天井の一点を見つめていた

おわり

般若

紙切れ